よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

飽きることもまた、風物詩かな

最近、ネットで料理番組の動画を観るのにハマっている。自分で料理するわけではないのだが、作っているのをただぼーっと眺めているだけで時間が過ぎていくのだよい。そして、なにげに料理に対する知識を深めることができる。たとえば、ホワイトソースの作り方なんて、何度も動画で見たので実際に作れば完璧であろうw



ところで、お正月を過ぎた後の料理番組は決まって「おせち料理に飽きた頃、こんな料理はいかがでしょうか」と提案してくる。それは毎年決まって繰り返されるフレーズである。年末には手軽につくれるおせち料理を紹介し、年始には「ポスト・おせち」へと料理をつなげていく。わたしたちの食文化・習慣の表も裏も知り尽くしたような、そんな番組からのメッセージに思わず苦笑いしてしまう。



それにしても、飽きることがわかっていながら、しかし、わたしたちはおせち料理を食べることを止めようとはしない。むしろ、飽きるほどにおせちを食べることが美徳であるかのようだ。飽きるほどに食べることを楽しめるもの、それがおせちという料理の醍醐味かもしれない(いや、本当はおせちに飽きてなどいないという説もある)。



1年に1回というサイクルにも意味があるだろう。今日(1月7日)の七草粥というのもそうだが、その時期にしか食べないものというのがある。そして、仮に1年も口にしていなかったら、食べたことがある味であっても、「ああ、もうあれは食べ飽きた」とならないのが、人の欲望の奥深さといえる。



話は変わるが、食を通じて季節を感じるということは、たとえば施設に住んでいる高齢者にとっては特別な意味を持っている。認知症になり見当識障害が進み、なおかつ外界との接触が少なくなる高齢者は、外に自由に出られる人のように季節を理解することが難しくなる。要介護認定の調査項目の中に「今の季節を理解することができるか」という項目があるが、実際にこの寒い季節であるにもかかわらずいまを「夏」と思っているような人が多々いるのだ。



正直、「七草粥なんて食べなくても」と思ってしまう自分がいるのだが(それほどおいしいものではないしw)、そうした食文化・習慣が、季節を感じる一助となり、生活にメリハリをもたらすための手段となることを考えると、飽きるほどに毎年同じものを食べるということにも意味があるのだなと思わざるを得ない。