よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

予期できないものとしての死について

年始からなんともめでたくない話だが、元旦早々、ある利用者とお別れすることになった。年齢的にはまだ比較的若く、そして何か生命の危機にかかわるような予兆があったわけではない、そんな状況で突然訪れた出来事だった。



自分の担当の利用者ではないとはいえ、そのようなことがこの年始に起こるとは何とも悲しいことである。しかし、それが死の現実であり、そして「いつ何が起きるかわからない」人たちを支えるこの現場の宿命でもある。



このような出来事に際して、いつも問われるのはそこに至るプロセスである。そして、このことは多くの職員を悩ませる。なぜなら、何らかの緊急事態が生じた際に、誰も死に至ることを意識して行動などしないからだ。むしろ、生き永らえることを考える。これが看取り介護だとまた別の話になるが、人々は必ずしもそうしてある程度予期された形で人生を閉じるわけではない。結果的にそうなってしまった、その中で対応の適切さを遡及的に問われることになるのだ。



だがはっきりいって、完璧に行動するなど無理な話であろう。わたしたちが何らかの対応を行うのは生命をつなぐためだが、それは決して何らかのアリバイ作りのためではなく、また、そうであるが故に、繊細かつ大胆な状況判断が求められる。決して救命の専門家ではないが、しかし、やることはやらないといけないのだ。そのためのマニュアルも整備されてはいる。



にもかかわらず、それがうまく機能することなどそうないように思える。いくらシミュレーションを重ねても、そのような現場に立ち会う機会などそうあるわけではなく、しかも複数の人間が同時に動いていかないといけない、その中で経験が物を言う世界でもあるため、構造的にうまくいくとは考えづらい。実際にやることはシンプルなのだけど、関係する職員がみな同じ方向を向いていなければ、結果的に混乱を招いてしまうこともあり得るからだ。



今回の対応がどうだったかわからない。やれることはやったかもしれないが、不十分な部分もあっただろう。しかし、こんなめでたい日に、施設から電話を受けなければいけない家族の気持ちは如何程のものだろうと、それは気がかりだ。



それにしても、指示を出す役割というのは何とも気が重いものだ。しかし、それの質が連携の良し悪しを決めてしまう。運ばれていく利用者の顔を思い浮かべながら、あの時のあの判断が正しかったのか、しばらく反芻する日々が続くことになるだろう。このような経験を、決してムダにしてはならない。