よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

国家資格をもって働くということ

最近、思考の停滞が著しく、あまりまとまらないことをが多いのだけど、いまの時期なので少し書き残しておく。



介護の仕事にはいろいろな側面があるが、典型的なもの、いわゆる身体介護と呼ばれるものの中に「入浴」がある。お風呂に入るということ、これに人手を必要とする人がこの世の中にはたくさんいる。



言うまでもなく、自分の身体の清潔を誰かの手に委ねなければいけないということ、そのことの意味は深く考えなければならない。そのようにして生きていくこと、つまりそれが介護を受けながら生きていくということであるが、その心中はその立場にならないとわからないかもしれない。だが、少なくともそのような状況について想像力をめぐらせることは必要である。そして、翻って、その生活を支える人間、介護者に何が求められているのかについても、絶えず考えていかなければいけない。



さて、現場で入浴介助を誰が担当するのかについては、その現場のやり方によるだろうが、わたしのいまの立場からは、実際にほとんど入浴の現場に入ることはない。全体を見ていくのがいまの自分の立ち回りだからだ。遠ざかっているから見えることもあるし、見失っていることがあるかもしれない。



そのような現場で、では、誰が入浴を担当するのかという話になる。必然的に、若手が動員される率が増える。そこで、考えていたのだが、彼/彼女たちにとって入浴の介護はいったい何を意味しているのかということ。



やり方を知っている、ということはあくまでスタートラインである。実際に入浴の介助ができるからといって、それがすなわち入浴介護をわかっていると言えるのだろうか。ふと、そんな疑問が浮かぶことがあった。



たとえば、入浴の前にはバイタルサインを計測するのが一般的だが、しかしなぜ入浴においてそのバイタルが重要なのかをきちんと理解した上で入浴の介護を行えている職員はいるだろうか。仕事を覚え始めの頃は「とにかく入浴前にはバイタルを測るものだ」と教えこむことも必要かもしれない。だが、もしこの手の専門家になるのなら、それだけでは不十分であることは言うまでもない。



冬場の時期には特に高齢者の入浴での事故が多いということが一般的に知られている。脱衣室と浴室の寒暖差や熱すぎるお湯へ浸かることによる身体への負担が、急な血圧上昇などの症状を引き起こし、場合によっては心筋梗塞脳梗塞につながることがある。そこで問題なのが、どのような入浴環境で血圧の変動が起きるのかということ。それを理解し、対策を立てておかなければならない。



安全であることは前提であるが、一方で入浴には文化的な側面もある。昔沖縄出身の方の入浴介助に入ったことがあるが、湯船に浸からないのですかと伺うと「沖縄には湯船に入る風習はないのよ」とシャワーだけで済まされてなるほどと思ったことがある。すでに沖縄から大阪に出て来て何十年と経っているはずだが、そういう習慣というのはそう簡単に変わるものではないということも知ることができた。



言うまでもなく、日本人の多くは入浴が好きである。認知症の人でお風呂に入るのを極端に嫌う人がいるが(介助者からすれば厄介な存在でもあり腕の見せ所でもある)、入浴には医学的にみても清潔維持以外にもリラックス効果が期待できる。高齢者にとっては身体への負担が大きいが、それだけでお風呂の楽しみを奪ってはならない。



入浴の介護は、決して身体清潔の保持に留まらないさまざまな側面を持っている。作業的にならず、そういう視点をもって若手にはもっとがんばって欲しい・・・と思っていたのだが、どうなのだろう。



そういえば、明日はいよいよ三福祉士(介護、社会、精神保健)の試験がある。よりによって大寒波がやってくる日というのが気の毒だが、わたしの同僚にも何人か受験する人がいるのでぜひとも合格して欲しいと思う。



当たり前だが、国家資格を持って働くということは、上にあげたようなことを熟知しているということだ。でなければ、素人と何も変わらなくなってしまうよ。