よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

それでも前に出て行くことの希望

ある芸能人の容姿が話題になっている。確かに、明らかにこれまでとは違っていた。人に見られることを生業とし、美に対して人一倍気を遣って来た人のはずだ。その人が、これまでの美しいイメージを壊すかのような、やつれた姿で人前に現れたのだ。



人が生きていく中で、体重の増減を経験することはままあることだろう。そして、一部の人々は太ることについて過剰に反応しどうすればやせられるのかについて日々頭を悩ましている。



しかし、そこには限度があるということを直感的に理解したうえでの話だ。やせすぎた身体を誰も健康的だなどと思わない。



高齢者介護の現場では、「栄養ケアマネジメント」という考え方があり、またそれは介護報酬上加算対象になっている。「して下さいよ」と国は奨励しているのだ。



栄養に関して、現場で話題になることといえばほとんどが「食べない」ということだ。そして、決まって議論になるのは「90歳を超えた高齢者に一日1400kcalきちっと摂取させる必要なんてあるのか」というようなこと。代謝も少ないのにそんなに食べなくても問題ないじゃない?というような話。



それでも、日々接していく中で、徐々に衰えていく身体を目の前にして「高齢だから仕方ないよね」と割り切れるほどわたしたちの気持ちはドライになれない。老いの現場で、老いの現実に逡巡しながら、その先にある何かをぼんやりと予知しながら、食べること、いや生きることの支援を日々続けているのだ。



話を戻そう。たとえば、医学的に死が間近に迫っている(半年イ以内)、いわゆる看取りの徴候として真っ先に捉えられるのが体重減少だったりする。死に向かう人間は自然とやせていくのだ。しかし、そこに苦痛があるわけではないと言われる。



そのような老衰とは別に、大きな病気をして急激に体重が落ちるということもあるだろう。そこから体重を戻していけるのか、それはその人の身体状況によるから一概に言えない



かつて関西芸能界の重鎮だった人が同じく大病をした際、治療を終えてもすぐに復帰できなかった理由が「あまりにもやせて見た目が違いすぎる」ということだったという。それでも、その体重を増やして復帰したその姿がやはりやせていて驚いたことがある。



そうしたことを思い返しながら、改めてあの芸能人がいま、カメラの前に現れた理由について考えてしまうのだった。



推測でものを言うのはよくないのだけど、やはり健康そうには見えない。本人は健康をアピールしており、まずはそのことばを信じるべきだと思うけど、だからこそそこにある意思のようなものを感じずにいられないのだ。



つまり、「わたしはこの身体であっても前に出て行く」という、その意志だ。むしろ、見られることを十分に意識した出で立ちは、これまで通りの芸能人としての振る舞いそのものだった。



「待つ」という選択もあったはずだ。もっと健康的な見た目に戻るまで。でも、待っていられなかったのだと思う。この身体で、出て行くことに意味があると考えたのだと思う。仕事をしたかったのだと思う。



そこにはある種の希望があるのだろう。その希望をきっちりと受け取ること、それこそがいまその芸能人に対してなされるべき最大限のサポートの形なのではないか。決して悲観することではないのだ。