よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

春うららを忘れずに

近所の花見スポットの桜はもうすっかり散ってしまった。

 

ああ、これが日本的な情緒というやつなのかなと思いつつ、サイクリングしながら暖かい気候に包まれると、ふと穏やかであたたかい気分になる。そして、何かに向かって動き出そうという気持ちが生まれる。

 

感情って移ろいやすいものだけど、その感情というやつに人はときに支配されたりもする。何かをしたいと思ったり思わなかったり、何気ない出来事が素敵に思えたり、ドラマティックな出来事が陳腐にしか思えなかったり・・・


話は変わるけど、高齢者施設でよく見る光景に、レクリエーション活動というのがある。何人かの利用者が集まって、体操したり、ぬりえをしたり、歌をうたったり、風船バレーをしたり・・・毎日少しずつメニューを変えながら、それぞれの楽しみ方でそうしたレクリエーションに参加するのだ。

 

ところで、なぜレクリエーションをするのだろうか?

 

一つのもっともらしい答えは、認知症予防というものだろう。身体を動かしたり、頭を働かせたり、そうした「アクティビティ」が認知症予防に効果があると期待されているのだ。

 

でも、すでに認知症になってしまっている人は? 1時間前のことも記憶していないようなお年寄りが、それでも認知症進行を予防するために、レクリエーションを続けるのだろうか?

 

実際に重度な認知症の利用者を相手にレクリエーションをしないといけない場面に立たされると、「なぜそこまでしてレクリエーションをしないといけないのか?」と思わされることがある。その人たちにできることがすでに極めて限られてしまっているからだ。

 

それでも、というか、だからこそ思う。

 

知っている歌をうたうでも、ただ聴くのでも、あるいは簡単なゲームに参加するのでもいい。ちょっとしたことでもいいから、何か一つでもそうした活動に参加して、それで楽しい気持ちになってもらえれば、それは十分に意味のあることではないか(それが実は大変なことではあるのだが)。

 

ボケないようにと一所懸命からだを動かそうとするのも悪くないけど、閉ざされた高齢者施設の中で、楽しいといった肯定的な感情が生まれるということが利用者にとってどれほどの効果があるのか、まずはそこから考えることが大切なのではないかと思う。

 

成功か失敗か?なんてことは単純には決められない。でも、もしレクリエーションがうまくいったと言える場面というのがあるとするのなら、それはそうした気持ちをうまく引き出せたときであって、決してアクティビティを卒なくこなしてもらえた時ではないのだろう。

 

認知症の人は新しいことを記憶するのが苦手だ。だから、そもそも出来事を覚えるのが難しい。昼食後にしたレクリエーションもおやつを食べ終わった頃には忘れてしまっているかもしれない。でも、「感情残像の法則」というのがあって、認知症であっても、自分がこころに抱いた感情は残像のように長い間残ると言われている。

 

認知症だからレクリエーションなんて不要、なのではない。認知症のお年寄りにこそ、レクリエーションは必要なのだ。なぜなら、それが、その人たちにとっての「生きる気力」につながる可能性があるからだ(もちろんそれが全てではないけど)。

 


明日のことなんてわからないし、昨日のことだってもうよく覚えてない。でも、なんだか気持ちがいいから、何かをしようって気になってきた・・・

 

そんな春うららな感情を、わたしは大切にしたいと思う。