よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

夕暮れ症候群

わたしが実習生が来た時に、ほぼ必ず説明することがある。それは「根拠」について。なぜそのような介護をするのだろうか? それを考えて欲しい。そして知ってほしい。なんとなくとか、誰かがそうしているからとかではなく、わたしたちが行うケアという営みにはきちんとした理由があるということを。

 

でも、ハッキリ言って、そんな理屈知らなくても介護はできてしまう。見よう見まねで、誰かの真似をして、なんとなく、言われるがままに、こんなもんなんだと思いながら・・・

 

はじめはそうやって出発するしかないのだから、当然なのだけど、そのレベルでとどまっているのなら、それはシロウトでしかない。それはハッキリしている。

 

だけど、いくら知識があっても技術があっても、一つ一つの介護の意味を理解しながらケアを行なっていても、それでもわからないこと、本当にそれでいいのかって思うことなんて多々ある。だって、する方もされる方も生身の人間だもの。生きるっていうこと、それを支える/支えられるっていうことは、知識や理論だけで解決できるような単純なものではない。知識があれば解決できることも多いけど(不可能性の認識も含めて)、それだけじゃどうすることもできないことだって多々ある。

 

最近、ふとわからないなー、って思うことがあった。自分自身のことで。

 

今の時期は暑いから、なかなか外出する気になれない。熱中症の危険があるし、体力の消耗も激しくなるから、日中はあんまり外に出ようって思わない。でも、ずっと家にいるとそれはそれで気分的によくないから、夕方ころにふと外に行こうかなーって気分になる。

 

でも、それってなんでなんだろう? なんで夕方? 涼しくなるから?

 

夕暮れ時にしか思い浮かばないことっていうのがある。夕暮れ時にしかわかない感情っていうのがある。ある種のノスタルジーなのかもしれないけど、でも、もっと感覚的な何かなのだと思う。

 

夕方っていったいなにがあるんだろう・・・

 

そんなことを考えていると、ふと「夕暮れ症候群」ということばを思い浮かべてしまう。ある認知症のテキストには、夕方になるとそわそわして「どうもお世話になりました。家に帰らせてもらいます」というような感じで家に帰ろうとする高齢者の例が紹介されている。この時間になると帰宅願望が強くなるというのだ。

 

このような行動には認知症特有の記憶の逆行性喪失とこれまでの生活習慣などが関係していると言われている。他人の家(それが自分のいま住んでいる家のこともある)にあがりこんで迷惑をかけてはいけないから帰る、夕食の支度をしないといけないからもう帰る、などという心理状態になっていると説明される。

 

でも、本当にそうなのかなあ? この事例の説明ではそうなのかもしれないけど、なんていうか、「夕方にそわそわ」って理屈抜きでもっとなんだかよくわからないもんなんじゃないかな、って気がする。

 

そういう気分みたいなのって、なかなかことばにできないし、根拠にならなかったりするけど、「そういうことってあるよね」って、それは明らかに主観的なものでしかないけど、そう言いたくなるものじゃないかって気がする。

 

そんな説明、実習生にはしないだろうけど。