よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

前向きになれるように!

ふと思うこと。上層部の人は何を持ってわたしたちの仕事を評価しようとしているのかはわからないけど、「言われないとしない」みたいな後手の姿勢では評価されないのは確かだろう。



でも、日々変化していく利用者を前にして、懸命になりながらも抗えないものを感じていて、死へと向かって生きていく人たちに対してどんなケアをしていけばいいのか、自問自答の日々。そんな中でときに自分たちが何をしようとしているのか、見失いそうになる。食事を介助したり、脱水しないように水分摂取を促したり、食後にトイレに連れて行ったり、生きるために必要な最低限のニーズを満たすだけでも手一杯、そうした身体介助をこなしていくことを「職務を遂行した」とみなさなければ、もうやってられないような状況がある。これだけ精一杯利用者のケアをしているのに、でも、傍から見たら「それが当たり前でしょ」って話で終わってしまう。軽度だろうと重度だろうと、介護が必要な人たちに対する支援、その情熱は変わらないはすだけど、要介護度の高い人たちを前にして、それ以上の何かを求められるのは過酷な気がしてしまう。



それでも、何かが足りないのは確か。先手を打たなければ、と思う。日々の介護業務をただこなすだけでは評価なんかされない。突破口を求めている。何かを一気に変えることなんてできないけど、一つでも新しいことを成し遂げられたら、見方もきっと変わるんじゃないか。そう思いながらも、どこにそのカギがあるのか、なかなか見つけられずにいる。これは自分ひとりの問題ではないのだから。



とりあえず考えてみよう。利用者をいま一度見つめよう。いったいどんなケアをされたいと思っているのか。何に困っているのか。どうすれば、人生の最期まで自分の望むように生きられるのか。介護されるということが「シモの世話すら他人に委ねないと生きられない惨めな身体になってしまったことに対する絶望」としてではなく、「人の力を借りればまだまだ生きられるし、こんな身体でもまだしたいことができるかもしれないという希望」として経験されるには、どうすればよいのか。



この前、わたしは他職員の反発を覚悟の上である利用者のオムツ外しを提案した。いまの状況で、そんな提案に乗り気にならないのはわかっている。でも、一度オムツをつけたらもう外せないなんてことはないし、またトイレで排泄ができるようになるということが、その利用者にとってどんな意味を持つのか、考えることが「一歩先を見越した介護」なのではないかとわたしは思った。アセスメントはきちんとしたから、不可能ではないはず。でも、うまくいかないかもしれない。不安もある。ただ、何もしないままで、本当にそれでいいのだろうか、って思う。



終わることのないケアという営みの中で、ただ心身状況が落ちていくのを見つめるだけ日々には必然的に停滞感がただよう。それが、利用者にとっての「絶望」に変わらないようにしていくにはどうすればよいのか。



そんなことで何かが変わるのかわからないけど、みんなが少しでも前向きになれるようになればいいなあって思う。それが上から評価されたら、もっといいんだけどね。