よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

要介護度が上がるということ

なんとも暗い予測ではあるけど、今年中にはいま担当している利用者の半数が要介護5になりそうな勢いである。現状において、すでにそれだけの介助量が必要な状況で、現場はアップアップしているわけだけど、それだけの数字が出ていても不思議なことに人員配置を変えようとしないのがなんとも腹ただしい。それでも、客観的な数字はそれなりに物を言う材料にはなるわけで、現場としては現状と照らしあわせて要介護度がその人に合ったものになる度に「ああようやくか」と思ったりする(もちろん下がることなど滅多にない)。



ただ、ご本人や家族にとって、要介護度が上がるということは決して喜ばしいことではなく、場合によってはなぜ上がったのか説明を求められることもあるかもしれない。



自立支援が叫ばれ、リハビリテーションも取り入れられている中で、それでも老いていく身体というのがあって、何かできることはないかと思いながら、どうすればできることを維持できるかと考えながら、結局、徐々に衰えていくのを受け入れるしかない。それが介護現場の一面なのではないかと思う。



それでもその人の可能性を信じて自立支援に取り組むというあり方もあるし、衰え行く身体にムチを打つようないたたまれなさを感じて、違う支援を模索することもあるだろう。あるいは、日々の忙しさを言い訳にして、その人ができることを徐々に奪っていってしまうという現実もあるだろう。



何かができなくなる理由は必ずしも定かではなく、緩やかに衰えていくプロセスの中で、何が原因かなんてわからない。ただ、いずれにしても高齢になるということは何かを喪失していく体験を伴うことなのだ。医学的に言えば、高齢者の多くは慢性的に進行する疾患を多く抱えているわけで、それを盾にしてはいけないのだけど、抗えないものがあるというのは事実だし、それと向き合うことなしに利用者の終末期を支援することなどできない



わたしは最近、要介護度が上がってきている現状について、確かに大変だけどこれだけ重度化してもそれでも生き永らえる生命があるのだから、それはスバラシイことではないかと、他のスタッフに言うようにしている。重度化していかないフロアというのは、結局それだけ利用者が入れ替わっているのだから、ここでずっと生活できるのは悪いことではない、と。



障害や病気が増えようと、認知症で世界の認識が曖昧になっても、それでも生きられる身体があるのだから、そのことは率直に肯定されるべきだろうと。そして、そのことを認められるのなら、「要介護度が上がる」ということの意味も、また違うものとして受け入れられるはずだ。