よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

専門性を捨てる覚悟

最近読んだこの本の中に怪しい記述があったのでメモを。

 

 

この手の本には珍しく、鷲田清一さんの本を引用している箇所があるのだけど、明らかに解釈を間違えている気がするのだ。



その本は『老いの空白』。この引用自体面白いので、議論のためにもまずは再度抜き出しておこう(ちなみに、本書には引用ページ数が記載されていなかったりする…オイ!)。

 

「専門性を捨てる用意があるだけでなく、専門性を捨てなければならないこと、つまりだれかの前でまずはひとりのひとであること。/おのれの培った専門性をいったん棚上げにして、じぶんもまた名前をもったひとりの特異な者として別の特異な者の代理になる用意があるということこそ、ケアもしくは臨床の現場の専門性のありかたにほかならない」

 

この一節を引用した後で、筆者は次のように続ける。

 

「要するに、日ごろはone of them(その他大勢)であっても、いざというときに専門性を発揮できるのが介護の現場における専門性でありプロだということです」(p.24)

 

この注釈を見てわたしは???となった。鷲田さんの言っていることって、そういうことなのか? あるいは、そのことを言うために、なぜ鷲田さんの本を引用するのだろうかと。その後の記述を読み進んでも、介護職の専門性について語るために不必要な引用であるのみならず、この筆者の記述全てが鷲田さんの言う「臨床の現場の専門性」を裏切るような話にすら思えてしまう。それぐらい、踏み外しているように感じる。鷲田さんのラディカルさをまるで理解していない。



哲学者の文章だ。どこに強調点を置くべきかは読み手によるかもしれない。わたしの考えでは、大事なのは「専門性を捨てる」という部分だ。



鷲田さんが強調しているのは、明らかに臨床の場面における〈わたし〉と〈あなた〉との関わりの固有性であり、そのかかわりの深度を強めれば強める(この表現適切でないかもしれない)ほどに、対峙する主体はむき出しの〈わたし〉(引用では「名前をもったひとりの特異な者」)になるということだと思う。鷲田さんが見据えているのは、「専門性」などというものが不要になるような地点、あるいはそのようなものがなければ成立しないような臨床の場だろう。しかし、ここがポイントなのだけど、その「専門性」なるものが削ぎ落とされるほどにひとりの〈わたし〉として臨床の場に入り込むことこそが、逆説的にケアの専門性としての機能であるということを上記の引用は伝えているはずなのだ。あるいは、相手と対等に深く向き合うためには、敢えてその「専門性」なるものの鎧を脱ぎ捨てなければならないのだと。



注釈では「日ごろはone of them(その他大勢)」と書いているが、鷲田さんの関心からしても、そのようなことはあり得ないだろう。徹底して「個」という視点を持って、「専門職」という集団属性から、〈わたし〉が〈あなた〉とかかわるその固有の地点へと視点を移し、そこから専門性を再度立ち上げようとしている。そして、「いざというとき」とは、臨床の場にいる時であって、平時と緊急時のような区別ですらない。そのような区別をしているのは筆者であり、そのような主張を鷲田さんの引用から読み取るのは難しい。



いわば臨床のダイナミックスみたいなものを、「ケア」の専門性として見据えるのが鷲田さんの議論なのだと思うけど、気づけば見慣れた「専門家の視点」が陳列された記述が並ぶ本書、実務的には役に立つことも書いてあるけど「専門性」に固執しまくりの本書が思想的につまらないのは言うまでもあるまい。

 

老いの空白 (岩波現代文庫)

老いの空白 (岩波現代文庫)