よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

わかろうとすることをあきらめないために

施設に入って半年も経たないある入居者がいる。以前は別の施設で生活していたとのことだが、身体状態をみると片麻痺に加え下肢筋力の低下が顕著で、奇跡的に健側の上肢を用いて自分で食事ができるが(これも利き手交換などのリハビリを経ての話である)、基本的には生活のほぼ全面において介護が必要な人である。



その方と接していて、わたしが当初から問題と思ったのは、コミュニケーションをとるのが非常に難しいということだ。実は意思表示はできるのだが、難聴であることからこちらの発話がうまく通じず、なおかつ脳卒中の後遺症で言語障害があり、その方の発話を聞き取るのがとても難しい。何かを話しているのだが不明瞭で、聞き直したり、筆談に切り替えたり(これも一方的な意思確認になりやすく必ずしも効率的とは言えない)、わかったふりをしてやり過ごしたり、そんなことがしばらく続いた。伝えたいことがあるのにうまくそのメッセージをキャッチできない、その状況は介護する側/される側双方にとって好ましいとは言えないものだった。



また、おそらくそうしたコミュニケーションの不全の影響なのか、かつて精神的に塞ぎこんでしまったこともあったという。



そんなことを考えながら、わたしはこの方と接する時、つねに笑顔と身振りで表情豊かにコミュニケーションすることを意識してきた。ことばはわからなくても表情は理解できるし、他入居者との交流も難しいからこそ、介護者が明るくふるまうことが必要だと思ったのだ。幸いにも、笑顔で接すると相手も笑顔になってくれた。



それに加えて研究したのは、発話の仕方。いわゆるものまねというやつをやってみたのだ。これは、入居者の特徴を捉えるために時々やったりするのだが、はっきり言うと入居者を傷つけてしまう行動になりうる。だから、方法論として他人にやれとはとても言えないのだが、しかし、真似をしているうちにわかってきたことがある。



たとえば、「おはようございます」というあいさつでさえ、この方の話し方だとそうは聞こえなかったりする(滑舌の悪さが強調された感じになる。「おばよおおあいます」のように)。それを真似して発話してみると、この話し方をすればこういう発話になるというのが徐々にわかってくるようになった。つまり、そこから逆算して、今度は元の発話が何なのかを類推すればよいのではと考えたわけだ。



必ずしもうまく行くわけではないが、そうしてこの人の言いたいことや話し方が徐々にわかるようになる…そんな経験をここ数ヶ月でしてきた。粘り強くコミュニケーションを続けて、入居当時よりも明らかに意思疎通が取れるようになってきたのだ。もちろん、単純にその時々にこの方が求めていることがわかるようになってきたというのもある。



何より、こちらが話かけなくても、この方から積極的に話しかけてくれるようになったことが一番大きいように思う。話してもわからない相手にわざわざ何かを言うようなことはしないだろうから。



こうした取り組みは、なかなか言語化されづらいことではあるが、介護職にしかできないことだと思う。だけど、そのことの価値や意義を介護職自身が理解していなかったりする。新人職員のなかには、ただわたしがこの入居者に対して陽気に振舞っているだけだと勘違いしている職員もいるかもしれない。

 

わたしはこうしたことを全ての入居者にしているわけではない。しかし、この人にはしなければいけないと思った。なぜなら、これだけ身体状態的に重度な人というのは、いつ何が起きるのかわからないが、その時に十分に意思疎通ができないと、次の手を打つ判断ができなくなる可能性があるからだ。本人が何か不調を訴えているのに、その内容が理解できないなどということはあってはならないと思う。



入居者のニーズや気持ちを汲み取るのは簡単なことではない。しかし、可能な限りその思いに近づこうとする努力を怠ってはいけないし、これからも続けていくことになるだろう。そして、そうした職員が周りにどんどん増えていけばいいと願っている。