よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

カルピスとアルマイトのヤカンの思い出

これも幼い頃の話。わたしが幼稚園生の頃、どこかの施設に訪問するという機会があった。いわゆる「慰問」というやつだけど、当時は何のことかわかっていなかったし、その記憶も非常におぼろげなものだ。



幼稚園からとある老人ホーム(だと思う)へ歩いて行ったことは記憶にあるのだけど、覚えているのは駅を超えた向こうの坂、ということ。その坂の記憶はあるのだけど、とにかく遠かったとしか記憶にない(昔の老人ホームは町から外れた場所にあるのが当たり前だった)。不思議なことに老人ホームの姿やそこで出会った人たちのことを全く覚えていないのだ。



そして、クタクタになって辿り着いた先で振る舞われたある飲み物のことだけが、なぜか頭に残っていた。



それはカルピスなのだけど、なぜ覚えているかというと、アルマイトのやかんにそのカルピスは入れられていたからだ。幼稚園でそのやかんから出てくるのはお茶だったから、そういうことにとても驚いた。もちろん、幼稚園では口にできないカルピスを飲ませてもらえたという単純な喜びもあったのだろうけど。



あの時、老人ホームで何をしたのか全く記憶がないのだけど、とても不思議なことがあって、おそらくその老人ホームと同じ法人の別の事業所に大人になって介護実習で訪れるという機会を得たのだ。そして、やっぱり昔そこで何をしたのか思い出せないけど、確かに来たことがあるということを思い出して、そしていまその老人ホームを自分の生業の場としていることを思い、いろいろと感慨深いものがあるなと感じたのだった。



ちなみに、わが施設内でも当然ながらカルピスは「嗜好品」なので、家族か本人がお金を出してわざわざ用意しないと飲めない飲み物の類である。一度、ユニット費で原液を買ってみなさんに作って振る舞ったこともあるけど(もちろん大喜び)、カルピス程度ですら自由に飲むこともできないのが老人ホームだとしたら、それはそれで悲しいことだと思う

 

あるおばあさんのこと

幼いころの老人たちとの記憶。そういうものは本当に少ないけど、ふと思い出したことがあったので書きとどめておく。



近所にあるおばあちゃんが住んでいた。浴衣か寝間着かわからないけど、白地に水色の柄の服を来てたまに近所を歩いていた。そのおばあちゃんはビニールの袋を持ち歩いていて、中には包装されていない剥き出しの「おかき」が何個か入っていた。そのおばあちゃんが、一度だけ幼いわたしに話しかけてきたことがあって、それは「お菓子持ってない?」だった。わざわざ家の近所でお菓子を持ち歩くわけもなく、「持ってないよ」と答えたら、そのままどこかへ行ってしまったのだった。



後になって、たまにおばあちゃんが歩きまわってるけどお菓子はあげたらダメと母に説明された(糖尿病だから?とかいう理由聞いた気がするけどはっきり覚えていない)。そういうもんだと幼い心には思っていたけど、いまになってあの経験は何なんだったのだろう、とふと思う。



明らかに外に出る格好ではなく、そして小さな子どもにお菓子を乞うているのだ。幼心にさえ心ざわめかせるものがあったけど、あれは間違いなく認知症を患ったおばあちゃんだったのだろう。しかし、その存在は隠されていた(というか、「見てはいけない」存在だった)。辛うじて外に出る自由はあったのかもしれないけど、それほど頻繁に出歩いているというわけでもなく、むしろ家の中に引きこもっていたのだと思う。



たまに現れては子どもに声をかけてくる老人…その姿への大人の眼差しは、間違いなく不審者へのそれとパラレルなものだった。



いわゆる「徘徊老人」に近所で話しかけられるという経験をわたしはそれ以来していないのだけど(いや、本当はどこかで出会っているはず、気づいていないだけで)、あれから四半世紀がたって、いまでも認知症高齢者が隠された存在であるとすれば、それは悲しいことだ、と思う。



※ちなみに、上記の例からわかるように、認知症の老人であっても何らかの行動原理を持って歩き回っている場合があり(このケースだと「お菓子が欲しい」)、無目的に歩き回るという意味での「徘徊」という用語は、業界的に見直されつつある。



それにしても、このおばあちゃんは、家でおかきを食べさせてもらえなかったのだろうか。あまりに食べ過ぎるから(これも認知症の症状としてはあり得る、食べたことを覚えられないから)、与えられる量を制限されていたのだろうか。そして、子どもに話しかけるというのは、この場合はどういう心理だったのだろうか。考えるといろいろと興味深い。

 

仮面の笑顔

つかれていても「つかれている」とは言ってはいけない・・・少なくとも部下の前では。



しかし、つかれているのだよ。だから顔にも行動にも態度にもいつの間にか出てしまう・・・身体は嘘をつけない。



だけど、他人に「つかれてるよね」と指摘されるのはそれなりに不愉快なことでもある。もちろん、本当につかれていたら「よくわかってくれたね」ってなるけど、別につかれてないときでもそういうことって言われたりするから。そして、そう言ってくる人がなにか労いの1つでもしてくれるのかと言ったらそうでもないし(何なんだろうね、あれ。人の心理読み取っていい気になりたいだけかよ、とか考えてやっぱりつかれるわw)。



利用者の前では、つかれた顔は見せてはいけない。これは、サービス業として考えると当然。だけど、職場にいる間にずーっとその顔をするのはさすがにムリ。メリハリをつけてせざるを得ない。自然と表の顔と裏の顔が現れる・・・これが怖いのだ。オンとオフと区切る場所は、フロントかバックヤードかではなく、職場かそれ以外かでなくてはならないのだ。



そういうのを見せないためには、つかれないorつかれた素振りを一切見せないように振る舞うしかない。ああ、しかし、どちらにしてもそんなことに労力を使うなんて、何てバカらしいんだろう、とも思う。



今日はわたしがあまりにもつかれ切っているのを察した同僚がいろいろと励ましてくれた(と思う)けど、何も収穫がなかった。ただ、つかれているということを追認するだけだった。



ストレスの原因が取り除かれたわけではない。むしろ、増えただけかもしれない。どうか、人のこと労ってる暇があれば、問題解決のためのアイデアでも1つわけてくれよ。



でなければ、どうか、本当に休ませてくれと思う(1週間ぐらいリフレッシュ休暇があれば最高w)。



そんな今年の8月でした。。。

 

まとまりのあるチーム・・・

今日の朝、テレビの占いがふと流れているのが目に入って(仕事中だけど)結果は最下位だったのだけど、そのメッセージに妙に納得してしまった。



占いが提示するのは、完璧を他人に求めてはいけない、寛容な精神を持とう、そして今日は余計なことは言わないようにしよう、ということだった(正確じゃないと思うけど、そんな感じというやつです)。



何をもって完璧というのかが1つの問題かもしれないけど、ここ最近、わたしの周りで起こるさまざまな出来事(積み重なると明らかにストレスに感じるようなアレだけど)を振り返るに、どこまで許容できるのかという部分で、どうも認識のギャップがあるような気がするのだ。



もちろん、わたしより高いハードルを課すような人間は残念ながら部下にはおらず、下手したらなあなあになりそうなその状況をわたしは絶えず批判しているのだけど、どうにも「締りが悪い」状態が続いていて、それがミスという形で表面化してしまう。



ミスの原因、特に利用者に不利益を与えるような、そしてサービス提供者が犯したミスをその都度考えるわけだけど、どうにもこうにも「起きてしまったことは仕方ないから~」と簡単に考えている節があって、それが気になる。同じようなミスを犯さないためには何をすべきなのかについて、本当に思考し理解が得られているのかどうか。リスクマネジメントの観点から、精神論が何の役にも立たないことはわかっているのだけど、しかし、いったいどういうつもりでこの現場に来ているのだお前は!と思ってしまうことも正直言ってあったりするのだ。それぐらい、いまや何かミスを引き寄せてしまう状況が生まれつつあるような気がしてしまう。



つまり、早くそれを断ち切りたいのだけど、その土壌を生み出した責任の一端は明らかにわたしにあるわけで、そして、そう簡単に何かが変わるなんてことはわたし一人の力ではどうしようもないこともまた知っているので、占いの暗示は、焦らずに1つずつ着実に、というメッセージなのかと思ってフムフムと思っていたのだった(まあある意味で楽観的なわけだけど)。



ちなみに、ミスなく的確に仕事をこなしていく上で、わたしは情報の収集と整理は最優先だと伝えてきた。そして、その意識が高い職員は必然的に介護記録も申し送りもスケジュール管理も抜け目なく行えるし、そうした情報共有への努力を怠る人間をわたしは一度も評価したことがない。



それ自体が1つの専門性であり能力なのだからバラつきがあるのは仕方がないにしても、その部分でもう少しチームとしての能力を向上しないと、これからも何か起きるだろうなという気はしている。

 

リスクを乗り切る力

どんな状況であってもいつものように何事もなかったかのように仕事をすることは大切だし、それが利用者にとっての生活の安定ではある。だけど、どうしても状況が変わっていかざるを得ないのが現場であって、その中でいかに「いつもと変わらず」振る舞えるかが勝負どころなのかな、とふと思ったりする。



最近あったこと。短期入所の新しい利用者が立て続けに空室に入ってきたのだけど、客観的に見て対応が完璧とはいかなかった。実際にミスも起きたけど、でも、よく乗り切ったと評価してもいいと思う。



一方で、そのことに気をとられて、それ以外の利用者のことを見れていないようでは話にならない。そこら辺のバランス感覚、ちょっと欠けていた部分があったように思える。



利用者はつねに変化に晒されている。そして、職員サイドで見て、そうした変化に特に弱いのが新人職員だということ。ある意味、ゴタゴタした状況の中で、乗り切る力があるのかないのか、結果的に試されるような結果になってしまったのかもしれない。



リスク管理という点から考えてみよう。たとえば、新規利用の場合、フェイスシート一枚しかないことがある。そこで、どこまでの情報を引き出せるか。それこそ、専門職としての「目利き」ではあるけど、それを新人に求めることは土台ムリな話である。だから、引き出したものをせめて情報共有し、押さえどころを予め押さえておく。どこを観察するのかを確認しておく。臨機応変に対応できる能力がない職員が対応せざるを得ないのであれば、せめてそうした目配りも必要である。


だけど、わたしとて完璧ではなく見逃しはある。それに、四六時中そこにいるわけではないから、その情報共有すらできない可能性もある。



詳しくは書けないけど、一人で気を張っていてもダメなんだなあと思うことが最近あった。不在状況での「存在感」はもちろん大事だ。だけど、リーダーならどうするだろうという思考を他職員も持ち合わせることがきっと必要なんだと思う。いなくても成り立つ状況であればいいけど、まだまだ十分ではないことが多い。



そこら辺を修正していくにはどうすればいいのか。これもまた経験と言ってしまっていいのかわからないけど、もっともっと良いチームになって欲しいのだよね。



そして、いい加減、わたしをもっと楽に仕事させておくれよ、というのがささやかな願望だったりする。至らないところがまだまだ多いのが現状だけど。