よむ介護

介護を通じて考えたことを書いていきます。

介護等の体験って・・・

「介護等体験」について調べていたら、すごいことが書いてあるページを見つけてしまった。

www.kyoushi.jp

 

曰く、


「また、施設の方は利用者の方に対して、いつも笑顔で接し、何かをやりとげることができたらほめています。このようなことは、教師という仕事でも同じことがいえます。子どもにいつも笑顔で接し、何か新しいことができるようになったらほめてあげる。介護等体験では、このようなことを学ぶことができると思います。」



年寄りと子どもを同列あつかい! 確かに何かをやり遂げたときに「すごいですねえ」と声かけすることはあるけど、決して「ほめてあげて」いるわけではない。そういうことを学びに来るのだとしたら、教師っていうのはまるで人から学ぶことを知らない職業なのだと勝手に思ってしまうよ・・・

 

ちなみにだけど…介護等の体験の本来の趣旨として「人の心の痛みのわかる教員、各人の価値観の相違を認められる心を持った教員の実現に資すること」ってあるんだけど、これ福祉施設はかわいそうな人達の集まりみたいな価値観が薄ら見えて、何ともウザい。

 

 

わかろうとすることをあきらめないために

施設に入って半年も経たないある入居者がいる。以前は別の施設で生活していたとのことだが、身体状態をみると片麻痺に加え下肢筋力の低下が顕著で、奇跡的に健側の上肢を用いて自分で食事ができるが(これも利き手交換などのリハビリを経ての話である)、基本的には生活のほぼ全面において介護が必要な人である。



その方と接していて、わたしが当初から問題と思ったのは、コミュニケーションをとるのが非常に難しいということだ。実は意思表示はできるのだが、難聴であることからこちらの発話がうまく通じず、なおかつ脳卒中の後遺症で言語障害があり、その方の発話を聞き取るのがとても難しい。何かを話しているのだが不明瞭で、聞き直したり、筆談に切り替えたり(これも一方的な意思確認になりやすく必ずしも効率的とは言えない)、わかったふりをしてやり過ごしたり、そんなことがしばらく続いた。伝えたいことがあるのにうまくそのメッセージをキャッチできない、その状況は介護する側/される側双方にとって好ましいとは言えないものだった。



また、おそらくそうしたコミュニケーションの不全の影響なのか、かつて精神的に塞ぎこんでしまったこともあったという。



そんなことを考えながら、わたしはこの方と接する時、つねに笑顔と身振りで表情豊かにコミュニケーションすることを意識してきた。ことばはわからなくても表情は理解できるし、他入居者との交流も難しいからこそ、介護者が明るくふるまうことが必要だと思ったのだ。幸いにも、笑顔で接すると相手も笑顔になってくれた。



それに加えて研究したのは、発話の仕方。いわゆるものまねというやつをやってみたのだ。これは、入居者の特徴を捉えるために時々やったりするのだが、はっきり言うと入居者を傷つけてしまう行動になりうる。だから、方法論として他人にやれとはとても言えないのだが、しかし、真似をしているうちにわかってきたことがある。



たとえば、「おはようございます」というあいさつでさえ、この方の話し方だとそうは聞こえなかったりする(滑舌の悪さが強調された感じになる。「おばよおおあいます」のように)。それを真似して発話してみると、この話し方をすればこういう発話になるというのが徐々にわかってくるようになった。つまり、そこから逆算して、今度は元の発話が何なのかを類推すればよいのではと考えたわけだ。



必ずしもうまく行くわけではないが、そうしてこの人の言いたいことや話し方が徐々にわかるようになる…そんな経験をここ数ヶ月でしてきた。粘り強くコミュニケーションを続けて、入居当時よりも明らかに意思疎通が取れるようになってきたのだ。もちろん、単純にその時々にこの方が求めていることがわかるようになってきたというのもある。



何より、こちらが話かけなくても、この方から積極的に話しかけてくれるようになったことが一番大きいように思う。話してもわからない相手にわざわざ何かを言うようなことはしないだろうから。



こうした取り組みは、なかなか言語化されづらいことではあるが、介護職にしかできないことだと思う。だけど、そのことの価値や意義を介護職自身が理解していなかったりする。新人職員のなかには、ただわたしがこの入居者に対して陽気に振舞っているだけだと勘違いしている職員もいるかもしれない。

 

わたしはこうしたことを全ての入居者にしているわけではない。しかし、この人にはしなければいけないと思った。なぜなら、これだけ身体状態的に重度な人というのは、いつ何が起きるのかわからないが、その時に十分に意思疎通ができないと、次の手を打つ判断ができなくなる可能性があるからだ。本人が何か不調を訴えているのに、その内容が理解できないなどということはあってはならないと思う。



入居者のニーズや気持ちを汲み取るのは簡単なことではない。しかし、可能な限りその思いに近づこうとする努力を怠ってはいけないし、これからも続けていくことになるだろう。そして、そうした職員が周りにどんどん増えていけばいいと願っている。

 

予防的な取り組みの難しさについて

たとえば、現象として物理的に何かが現れたとしてそれを取り除くのはそれほど難しくないかもしれないが、何かが物理的に現れること自体を防ぐとなると話は変わってくる。



まずその物が現れる機序を明らかにした上で、それが発生するプロセスに介入し形にならないように働きかけなければならない。その介入自体、一瞬なのか継続的な営みになるかはその発生プロセスによるわけで、場合によっては介入自体が膨大な労力を要するプロセスへと変わるかもしれない。介入を続ける中で、その物自体が発生する機序自体に変化が及ぶかもしれない。



「~~を予防する」ということが介護現場では当たり前のように飛び交っている。筋力低下、拘縮、誤嚥、脱水、転倒、褥瘡、閉じこもり、インフルエンザ、あるいは認知機能低下。ある意味、予防的ケアこそが良質な介護の要と言っても過言ではない。しかしながら、その予防への取り組みにはある種の難しさが伴う。



それは、予防が目指すところが「~~を発生させない」ことにあるからだ。たとえば、褥瘡予防で目指されるのは、褥瘡を治癒することではなく、そもそも褥瘡を作らないことなのだ。



そのために一体何をすべきか。まず、褥瘡がなぜ発生するかを知るところから始めなければならないだろう。その上で、発生しやすい利用者を見極め、その利用者に対して、湿潤環境の改善や除圧ケア、栄養状態の改善など、しかるべき対処をしなければならない。



そして、「発生していない」ことがその人へのケアのプロセスの一つであることをチーム内で理解・共有されなければならない。でなければ、「元々何もしなくても問題なかったじゃないか」という話に転がりかねないからだ。何かをしたから発生していないのか、何もしなくてもそもそも発生しないのか、その境目の見極めこそが専門性といえるだろう。



困難なのは、このプロセスにはおそらく終わりがないということだ。「発生していない」ということをずっと維持し続けること、これが予防の意義なのだ。これは実は大変なことだというのは、もし目の前にいる利用者が虚弱でさまざまなリスクに晒されやすい状態であるなら、容易に実感できるはずだ。



ここで1つの問題をあげよう。たとえば、認知症予防はいまや民放でも取り上げられるほどのキラーコンテンツになっているが、その中にはいまなお根拠が不明確なものも多い。これが効果がある、と言われているものが後年になって否定されることなどよくあることだ。



つまり、予防のためにやっていたことが実は何の意味がなかった、ということも起こりうるのだ。これも予防ケアに取り組む上でつまづきの石になる。効果を測定するのが難しいことを続けるにはそれなりのモチベーションが必要なのだ。



ということで、予防的取り組みにはある種のマネジメントが必要になるのだけど、そこまで考えて予防に取り組んでいる人って世の中にどれだけいるのやら・・・

 

時間を有効に使うことについて

昔いっしょに働いていたベテランの同僚がいて、その人はとにかく仕事が早かった。年齢から考えるとびっくりするほどにパワフルで、そのスピード感が時に利用者中心の逆を行くようで怖いほどだった。



その人がある時言った言葉がとても印象的だった。その人は排泄介助の手際がとてもよかったのだけど、気づけば真っ先に介助に向かってしまうような部分があって「あれっ?もう終わったんですか」ということがしばしばあったのだ。すっといなくなったのでトイレに行ったのかと思ってたら、他人の排泄の世話を終わらせていたというレベル。



そこで、ある時、さすが早いですねえという会話をしていたら「そういうのはパッと終わらして、できた時間でレクリエーションとかみんなでしたらいいのよ」と、そう言われたのだ。



「なるほど、そういう考えで動いてるんだ」と妙に納得したもんだった。だけど、簡単に受け入れられないと思った。時間の使い方が徹頭徹尾サービスを提供する側の主導になっていたからだ。確かに介護度が高いフロアだったので、そうせざるを得ない面があったにせよ、食事の時間も排泄の時間も一様ではないはずの利用者に対して、結果的に同じようなケアをしてしまうことになる、と思ったのだった。それでも、時間を有効に活用しようとする意識があるのはさすがだと思った。



翻っていまの現状を見ると、残念ながら仕事も遅いし、時間ができたらできたらで何をするでもなくダラダラしている職員がいたりする。最低限の仕事をして終わり、そこには創意工夫が存在しない。せめて利用者と何かする時間を持とうよと思うのだけど、指示しないと動こうとしない。あの時と比べたら明らかにレベルが落ちたなあ、と思ってしまうのだけど、何かいい解決法があるかはわからない(結局、自分で考えないと成長なんてしないんだから)。



それはそうと、最近わたしは時間については「限られた時間をたっぷりと使う」ということを意識している。たとえば現場では「食事介助が終わったらじゃあ排泄介助だね」というようなある種の「流れ」があって、そこに効率化という要素が入ると、気づけば集団ケア一歩手前みたいなことになっていたりする。



それを避けるためにどうすればいいか。時間に余裕があるのなら、食事が終わった後にでも「どうでしたか、今日の食事はおいしかったですか」と一言会話でもしてみればいいと思う。あるいは「お腹いっぱいになりましたか」とかね。そして、車椅子に乗っていることを利用して、すぐにトイレまで連れて行こうとしない。ちゃんと食べ終わった後の余韻を楽しんでもらうように工夫するのだ。仮に満腹だったとして、ちょっとゆっくりするぐらいのことは誰だってすることだろう。



当たり前のことだ。だけど、これがなぜかできないのだ。不安があるとすれば、あまりにもたもたしていると排泄が間に合わなくて結果的に利用者に不利益を与えるといったことだろう。少ない人員で介助量が多いなら尚更、時間を気にしながら動いていかなければならない。



だけど、そういうことに慣れると、結果的にルーティンになるのだよね。作業的な動きになる。そこでは利用者の主体性は無きものにされてしまう。それが果たして時間の有効活用と言えるのか…



せかせか動いてしまう中堅職員を見ていると、そういう現場にはしたくないなあと思ってしまうのだけど、そういう意識をフロアに浸透させるにはどうすればいいのか。これまた難しい問題である。 

 

それでも前に出て行くことの希望

ある芸能人の容姿が話題になっている。確かに、明らかにこれまでとは違っていた。人に見られることを生業とし、美に対して人一倍気を遣って来た人のはずだ。その人が、これまでの美しいイメージを壊すかのような、やつれた姿で人前に現れたのだ。



人が生きていく中で、体重の増減を経験することはままあることだろう。そして、一部の人々は太ることについて過剰に反応しどうすればやせられるのかについて日々頭を悩ましている。



しかし、そこには限度があるということを直感的に理解したうえでの話だ。やせすぎた身体を誰も健康的だなどと思わない。



高齢者介護の現場では、「栄養ケアマネジメント」という考え方があり、またそれは介護報酬上加算対象になっている。「して下さいよ」と国は奨励しているのだ。



栄養に関して、現場で話題になることといえばほとんどが「食べない」ということだ。そして、決まって議論になるのは「90歳を超えた高齢者に一日1400kcalきちっと摂取させる必要なんてあるのか」というようなこと。代謝も少ないのにそんなに食べなくても問題ないじゃない?というような話。



それでも、日々接していく中で、徐々に衰えていく身体を目の前にして「高齢だから仕方ないよね」と割り切れるほどわたしたちの気持ちはドライになれない。老いの現場で、老いの現実に逡巡しながら、その先にある何かをぼんやりと予知しながら、食べること、いや生きることの支援を日々続けているのだ。



話を戻そう。たとえば、医学的に死が間近に迫っている(半年イ以内)、いわゆる看取りの徴候として真っ先に捉えられるのが体重減少だったりする。死に向かう人間は自然とやせていくのだ。しかし、そこに苦痛があるわけではないと言われる。



そのような老衰とは別に、大きな病気をして急激に体重が落ちるということもあるだろう。そこから体重を戻していけるのか、それはその人の身体状況によるから一概に言えない



かつて関西芸能界の重鎮だった人が同じく大病をした際、治療を終えてもすぐに復帰できなかった理由が「あまりにもやせて見た目が違いすぎる」ということだったという。それでも、その体重を増やして復帰したその姿がやはりやせていて驚いたことがある。



そうしたことを思い返しながら、改めてあの芸能人がいま、カメラの前に現れた理由について考えてしまうのだった。



推測でものを言うのはよくないのだけど、やはり健康そうには見えない。本人は健康をアピールしており、まずはそのことばを信じるべきだと思うけど、だからこそそこにある意思のようなものを感じずにいられないのだ。



つまり、「わたしはこの身体であっても前に出て行く」という、その意志だ。むしろ、見られることを十分に意識した出で立ちは、これまで通りの芸能人としての振る舞いそのものだった。



「待つ」という選択もあったはずだ。もっと健康的な見た目に戻るまで。でも、待っていられなかったのだと思う。この身体で、出て行くことに意味があると考えたのだと思う。仕事をしたかったのだと思う。



そこにはある種の希望があるのだろう。その希望をきっちりと受け取ること、それこそがいまその芸能人に対してなされるべき最大限のサポートの形なのではないか。決して悲観することではないのだ。